「アメリカの歯科医院の58%がAIを導入済み、または導入予定」。海外の歯科ニュースで見かける数字です。日本の院長先生がこれを読むと、たいてい2つのどちらかを感じます。うちも何か入れないと遅れる、か、うちのような規模には関係ない、か。
この58%がどこから出た数字なのか、出典まで追いかけました。出てきたのは、AI活用の話ではありませんでした。保険会社に締め上げられた医院が、防戦のために握った道具の話です。そしてその背景をたどると、アメリカの歯科医院がこの15年で何を失い、大手チェーンが何に失敗したかが見えてきます。
先に結論を書きます。「うちは小さいから不利だ」は、数字と逆でした。
58%の中身は「守りのAI」でした
数字の出どころは、Zentistという請求管理会社が2026年3月に公表したレポートです。回答者は歯科医院の保険請求担当者160人超。ここで言うAIの中身は、保険資格の確認や入金の消し込みといった事務作業でした。画像診断のAIでも、患者対応のAIでもありません。
同じレポートに、もうひとつ数字があります。78%が「この12か月で保険会社からの否認・審査が増えた」と答えています。2025年の歯科請求の否認率は約19%。保険会社の半数超がAIで審査をしていて、レントゲンから骨の吸収量を機械で測り、閾値に届かなければスケーリング・ルートプレーニングや抜歯を否認する、という運用が出てきています。
整理すると、こうなります。保険会社がAIで否認を増やす。医院はAIで請求を守る。58%は、この軍拡競争の医院側の数字でした。「アメリカの歯科はAIが進んでいる」という話とは、だいぶ違います。

なぜ保険会社は絞るのか
先に前提を1つだけ。アメリカの歯科保険は、勤め先経由で入る民間の保険が中心です。医院が保険会社と契約し、処置のあとに医院が保険会社へ請求する。ここまでは日本のレセプトと同じです。違うのは、保険会社ごとに支払いの条件が違い、審査で「払わない」と言えること。年間の給付上限も1人あたり1,000〜2,000ドル程度で、否認されれば医院は再審査を求めるか、患者に全額を請求するかになります。
| アメリカ | 日本 | |
|---|---|---|
| 誰が請求するか | 医院→保険会社 | 医院→審査支払機関→保険者 |
| 保険者 | 民間の保険会社(複数・条件はバラバラ) | 公的(条件と価格は全国一律) |
| 否認されたら | 医院が再審査を求めるか、患者に全額請求 | 返戻・査定はあるが「保険者の利益で否認」は構造的に弱い |
保険会社側の事情はシンプルで、保険料を上げられないまま給付が膨らみ、利益が薄くなったからです。どこかの国でも聞くような話ですね。あ、日本か。医科では2023年に、AIで一括否認していた保険会社が訴訟になり社会問題になりましたが、歯科にも同じ流れが来た形です。しかも患者が異議申し立てをするのは1%未満。審査請求すれば半数超が覆るのに、ほとんど誰も申し立てない。「とりあえず否認」に経済合理性がある状態です。
ここで、その背景にあるアメリカの歯科医院の10年を見ると、事情がもっと重いことが分かります。
アメリカの歯科医院は、3方向から締められていた
アメリカ歯科医師会(ADA)の調査部門のデータを並べると、一般歯科医の実質所得(医院経費を引いた後・物価調整後)は、2010年の26万7千ドルから2024年には20万8千ドルへ、15年で約2割減っています。売上は横ばい、人件費と材料費は上がり、保険の支払単価は上がらなかった。これも日本でよく聞く話です。そこに3つが同時にかかりました。
| 方向 | 何が起きたか | 数字 |
|---|---|---|
| 資本 | 投資ファンドがお金を出して医院を買い集め、大手チェーンにする(アメリカではDSOと呼びます。以下「ファンド系チェーン」) | ファンド系チェーンに勤める歯科医 7.2%→16.1%(2015→2024)。卒後5年未満の若手は31% |
| 人 | 衛生士が採れない | 採用「極めて困難」と答える院長 90.8%、3年間不変 |
| 保険 | 保険会社がAI審査で否認を増やす | 否認率19%・78%が「増えた」 |
そしてアメリカの院長たちは、それぞれに手を打ちました。結果がこうです。
| 打った手 | 結果(2026年) |
|---|---|
| お金で束ねる(ファンド系チェーンに医院を売る/勤める) | 金利上昇で大手チェーンが借金を返せず、14億ドル規模のチェーンが債務の約7割を棒引きされ、貸し手に経営権が移った。借金で大きくする路線が息切れ |
| 賃上げとスポット派遣で人を埋める | 給料を上げても衛生士は集まらず、業界団体が「足りないのは人ではなく、辞めない職場」と言い出した |
| 保険から距離を置く | 「保険を抜ける」と35%が言い、実際に抜けたのは22%。患者を失うのが怖くて抜けられない |
3つとも決定打になりませんでした。
大手が勝つ、とは言えませんでした
ここが今日いちばん書きたかったところです。アメリカの大手、つまりファンド系チェーンは、お金と人事部の力で採用・研修・数字の管理・勤務医のキャリアの階段まで作り込みました。それでも、ADAの2023年調査で、ファンド系チェーンに勤める新人歯科医の48%が「辞める予定」と答えています。個人開業の医院に勤める新人は8%です。5年でチェーンの新人の43%が実際に離れました。
なぜ辞めるのか。同じ調査に理由の内訳もあるのですが、それは別の機会に書きます。ひとつだけ言うと、給料ではありませんでした。

大手が勝つ、とは言えません。金で束ねた組織は金利で崩れ、仕組みだけ整えた組織からは人が抜ける。残ったのは、規模の話ではなく「勤務医とスタッフが辞めない組織を作れるか」という運営力の話でした。
日本には、人と組織の話だけが先に来ています
大手に売らないかという話や、承継仲介の電話が来始めた院長も多いと思います。ここは分けて考える必要があります。
| アメリカで起きたこと | 日本 | 理由 |
|---|---|---|
| ファンドが医院を買い集める | 形を変えて来ている | 買い手はファンドでなく大手医療法人。借金で買い集める形にはならない |
| 保険会社がAIで否認する | 来ない(弱く形を変えて) | 公定価格の皆保険。審査の機械化という方向だけ同じ |
| 保険を抜ける | 少し来ている | 自費専門の医院が出てきている。ただし大多数は抜けられず、「保険依存度をどこまで下げるか」の問いになる |
| 勤務医が開業せず長く勤める | 来ている | 勤務歯科医師の比率 24%→31.8% |
| 衛生士が採れない | 来ている | 新卒衛生士1人に求人23件 |
| 院長が高齢化し閉院が増える | 来ている | 院長平均55.2歳・廃止1,748件>新規開設1,363件 |
保険の話は制度が違うので、来るとしても弱く形を変えて来ます。人と組織の話は人口と労働市場の話なので、制度に関係なく来ます。そして数字を見ると、日本はアメリカが10年かけてたどり着いた谷に、もう先に入っています。
資本の話は、来方が違います。日本でも大手の医療法人グループは医院を買い集めています。ただしアメリカのように、ファンドが借金で買い集めているのではありません。勤務医が開業しないから受け皿が要る、承継先のない医院を近隣の法人が引き取る、という理由で大きくなっています。だから借金の金利で一気に崩れる形にはなりにくい。代わりに弱点は「分院を任せられる院長クラスが育たない」ことです。アメリカの大手チェーンがお金を積んでもぶつかった壁と、同じところにぶつかります。
小さな医院に希望は、あります
というより、アメリカの数字が示しているのは「小規模は不利」ではなく「規模で解けない」でした。大手チェーンに勤める新人の48%が辞めたがり、個人開業医に勤める新人は8%。個人の医院はもともと、院長が近くにいて、口を出せて、任せてもらえる構造を持っています。それが「辞めない組織」の中身そのものです。
大手の側で何が起きるかは、身近でも見ました。私の同期がある法人の分院長をしていて、集患も売上も人の管理も教育も、全部任されていました。最初はやりがいがあったそうです。ただ、給与はそこまで上がらない。やりたいことは理事長が決め、ルールも理事長が決め、人事権はないのに人の管理だけはやる。責任だけを負う立場です。しかも自分より上の歯科医師がその医院にいないので、技術が伸びる感覚もない。彼が辞めたら、その分院を管理する人がいなくなって、分院はなくなりました。アメリカの大手チェーンで新人の半分が辞めたがっている理由と、たぶん同じ場所です。
ただし小さな医院にも条件があります。院長がひとりで採用も教育も評価も面談も抱えたままでは、その利点は院長の体力が尽きた時点で消えます。歯科医院は1施設平均5人ちょっと、管理職ゼロ、院長は55歳。アメリカはそこをチェーン本部という人事部と歩合で埋めました。日本は法律でそれができない。だから、勤務医が育つ仕組みと辞めない設計を、院長の性格や気合ではなく、外から持ち込んででも「仕組み」として置くしかない。それが私がやっている仕事でもあります。
3年目の勤務医が「そろそろ分院を任せてほしい」と言い出す医院と、3年目に開業届を出す医院があります。差は給料表ではなく、任せ方と関わらせ方の設計にあります。
58%のAI導入は、アメリカの医院が資本と保険に締められた末に握った盾でした。日本の医院が握るものは、盾ではなく、人が残る設計です。
よく言われること
| 院長先生からよく言われること | 私の答え |
|---|---|
| うちは勤務医がいない。1人院長で衛生士だけ | 衛生士も同じ構造です。人が残る設計は職種を問いません。むしろ衛生士のほうが先に谷が来ています |
| 忙しくて仕組みを作る時間がない | だから外から持ち込む話をしています。院長の時間を新しく使う前提ではありません |
| 大手に売ったほうが早いのでは | 売れる医院とは、院長がいなくても回る医院です。売る場合でも、残る場合でも、設計は要ります |
心当たりがあれば
- 勤務医が数年で開業せず居着くようになったが、何を任せていいか分からない
- 衛生士の募集を出しても、問い合わせが来ない
- 大手グループの話を聞いて、うちは小さいから不利だと感じた
このあたりに覚えがあれば、お問い合わせからご連絡ください。まず自院の「人が残る設計」がどこまでできているかを、一緒に棚卸しするところからやります。
参照
- Zentist, 2026 Dental RCM Trends & Insights Report(2026年3月・請求担当者160人超)
- ADA Health Policy Institute, Practice Transitions Among New Dentists(新人歯科医の離職意向)
- ADA Health Policy Institute, Trends in Dentist Income(一般歯科医の実質所得)
- ADA Health Policy Institute, State of the U.S. Dental Economy Q3 2025(衛生士の採用難)
- ADA Health Policy Institute, U.S. Dentist Workforce 2025(チェーン所属比率)
- 厚生労働省, 医療施設調査/医師・歯科医師・薬剤師統計/第25回医療経済実態調査
この記事を書いた人
楢原 峻(ならはら しゅん)
Innovation Careers Lab. 代表。歯科医師・歯学博士。口腔外科に12年在籍し、日本口腔外科学会専門医を取得。現在も臨床に立ちながら、歯科医院の経営支援とAI実装に取り組んでいる。
Author
楢原 峻
株式会社Innovation Careers Lab. 代表取締役
歯科医師 / 歯学博士 / 口腔外科専門医
長崎大学病院口腔外科で12年間、臨床・研究・教育に従事。医局長・外来医長・病棟医長を歴任。現在は歯科医院を中心に、AI・DX導入支援と経営コンサルティングを提供しています。

